昨年、福岡インディペンデント映画祭(FIDFF)ではプログラムの1つとして「見里朝希監督特集」を実施。見里監督が学生時代に制作した『恋はエレベーター』から、WIT STUDIOで制作した『Candy Caries』までの6作品を上映しました。
もちろんその6作品の中にはシンエイ動画と制作した『PUI PUI モルカー』も。当日は『モルカー』にも出演の見里瑞穂さん(監督のお姉さん)が、モル声優にしてご先祖さまこと「つむぎ」とリモート出演、先がけて行っていた「モルカー人気投票」から1位の発表に上映と、楽しい時間になりました。
そして今年の開催に向けて作品の公募を開始。それに合わせて見里監督のインタビューも公開しました!映画祭への応募が現在につながっている見里監督の軌跡から、あらためて確認しておきたいことまで“モルだくさん”な内容になっています。じっくりご覧ください。(聞き手:真狩祐志)
アニメーションへの関心 武蔵美での制作は?
真狩:制作するより前の話からですけど、いつ頃から作品としてのコマ撮り(ストップモーション)やアニメーションに興味を持つようになったんでしょう?
見里:4、5歳くらいで『ニャッキ!』や『ピングー』には触れていましたね。でもその頃はコマ撮りとは全く分からずに見ていました。みんな他の子は『ポケットモンスター』とかを見ているのに、それらがナラティブではない(注:セリフなしの)作品だったからか、普通の子より言葉を話し始めるのが遅かったみたいです。それで言葉を学ぶ学校に通ってもいましたね。
真狩:集中力というか没入感がスゴかったんですかね。これはお姉さんからの情報なんですけど、母方のお祖母さん(宇野かずこさん)が現役の画家なのもあって絵を描くようになったと聞きました。魚の図鑑も作っていたとか。
パリ国際サロンや日本・フランス現代美術世界展に出品
見里:そうですね。絵やマンガを描くことに興味を持ったのは小学生の頃です。もともと祖母からスケッチブックをもらって絵を描き始めたので、影響はあるかなと思います。何も描かれていない真っ白な本をもらって、それに描いてシリーズもののマンガを作ったりしました。
魚の図鑑は小1の時ですね。それを作っている途中で、自由研究の時に2年生が作っていたクオリティーの高い大砲の工作を見てしまい、自分でも作りたくなってしまいました。トイレットペーパーの芯とかティッシュの箱とかで、急遽「大砲」ということにしてしまって、もったいないことをしました。
魚の図鑑は今でも未完成のまま残っています。小5、小6の時には「週刊フライデー」という、毎週マンガを更新するのにも参加していました。金曜日あたりに教室の後ろにあるロッカーに置いていたんです。周りの子から「絵を描くのが上手い」と言われて描いていって、それはそれで楽しかった思い出でした。
真狩:中高はどのように過ごしてましたか?
見里:中学生になってからはそれほど絵を描かなくなりました。中学の頃はオタクという言葉が校内で流行り始めていて、そのように自分が言われるのは嫌だったのもあり、絵を描くことから離れていた時期があって……。それでも美術の授業は好きだったので、絵を描きたい気持ちはありました。
高校生の頃もそれは変わらずに、自分から絵を描こうというのはなかったです。ただ高2の時に、何気なく机にラクガキをしていたのを見た友達から「上手いからその道に進めばいいじゃん」と言われたのがピンと来ました。その友達がペンタブレットを持っていたので、自分も中古で買ってPCでも描くようになりました。美大を目指したいと思うようになったのはそこからですね。
工芸大では専攻やコースではなく学科として設置(日本初)
真狩:なんとなく『ブルーピリオド』っぽくなってきました(笑)。
見里:そうですね(笑)。予備校は新宿の河合塾美術研究所に通いましたけど、やっぱりうまくいかずに1浪しました。でも1浪してから絵を描くことの楽しさを見いだせるようになって、予備校で出される課題とかもうまくいくようになりました。予備校でやっていたのは映像系ではなくデザイン系で、授業もデッサンとか色彩構成とかの基礎的なものです。
制作としてのアニメーションに興味を持ったきっかけは、浪人の時です。現役の時もアニメーション制作のワークショップに参加してたのが楽しかったので、予備校内でちょっとしたお祭りみたいなのがあった時に作ってみました。
各人が自分の作品を作ってギャラリーに展示するんですけど、別々のモニターにイヌとサルのキャラクターが映っていて、画面を向き合わせて食べ物を投げあっているような作品(『犬猿の仲』)にしました。映像だけではなく空間まで体験できるインスタレーションのようなものにもなって、グランプリまで受賞しました。
方向性を決めた『コラライン』 多摩美にも憧れる
真狩:そして武蔵美(武蔵野美術大学)に進学ですね。アニメーションを学べるのは映像学科やデザイン情報学科(通称:デ情)などもある中で、視覚伝達デザイン学科(通称:視デ)を選んでいます。
見里:アニメーションに興味はあったんですけどイラストレーションにも興味があって、視デに入った方が将来的に就職の選択肢も増えそうだなと思いました。視デを選んだ決定的な理由は、オープンキャンパスに行った時に卒業制作の『アトミック・ワールド』を見たことです。
撮影が行われたのは、九州大学芸術工学部に在籍していた頃
真狩:谷田部(透湖)さん(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』副監督など)の『木の葉化石の夏』とか竹内(泰人)さん(『カムカムエヴリバディ』タイトル映像など)の『オオカミはブタを食べようと思った。(オオカミとブタ)』とかも見てましたか?谷田部さんは映像学科で竹内さんは大学院の映像コースでしたけど。
見里:『木の葉化石の夏』は見ています。確か自分が2年の時の卒制ですね。『オオカミはブタを食べようと思った。』はテレビとかで話題になってた当時に知りました。
オープンキャンパスで見た作品は各学科全体ではなくて視デだけだったと思います。他の作品も印象に残るものが多かったですね。藝大(東京藝術大学)や多摩美(多摩美術大学)のにも行ったりはしたんですけど、「視デでもアニメーションを作ることができるんだ!」とスゴく感銘を受けて、入りたいと思うようになりました。
真狩:先ほどの『アトミック・ワールド』は今津(良樹)さんの作品ですね。この話あとで面白いのでまたその時に(笑)。
見里:(笑)。今津さんの代の視デは卒制でアニメーションを選ぶ人が多くて、一時は「視デアニメーション」と呼ばれるくらいブランドができあがっていたんですよ。でも自分が入った代では関心を持つ人が少なくて、減ってしまったように思います。卒業後に行ってみても同じなので、なんとか当時の熱を取り戻してほしいです。
入学してすぐ実技でアニメーションを制作できるかと思ったら、視デは基礎から学ぶ学科でした。みんなで裸足になって外に出て目隠しして歩くとか、ひたすら筆で線を100枚描くとか、よく分からないこともしてましたね(笑)。今となっては本当に言葉以外のやり方で伝えるための感覚を磨く授業だったんだなと思いますけど、当時は早くアニメーションを作りたいと思っていました。
なお学科は視デではなく映像、本作は卒業制作ではなく進級制作
真狩:『コララインとボタンの魔女』(注:監督は『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』などのヘンリー・セリック。キャラクターの顔などに3Dプリンターで出力した素材も使われている)に感銘を受けたのも、大学に入ってからのことでしたかね?
見里:そうです。1年の時に友達に教えてもらってから、いつかコマ撮りも作りたいと思っていました。ちなみにモルモットを飼い始めたのも大学に入ってからで、「ミルキー」と名づけました。
それでもまだ1年の時はアニメーションなのかイラストレーションなのかで揺らいでいる部分もありました。勉強も基礎ばかりでなく実践もやりたいと思ったので、アドビのMaster Collection(現:Creative Cloud)を買って、After Effectsを独学で習得していって、冬に初めて自主制作しました。その作品は原宿のデザインフェスタギャラリーで、自分自身をテーマにする「僕10」というグループ展をやった時のものです。
自分自身のクセ毛をテーマに作りました(『Natural Wave』)。それを展示した時はクセ毛をコンプレックスに思っていて、なかなか中学の時とかでも人に相談できないことでもありました。自分で縮毛矯正としてアイロンをかけたりした苦労とか扱いづらさを、上映で共感してもらえたことに感動したんです。それでアニメーションを通して、メッセージやエンターテインメントを発信していきたいという気持ちが強くなりました。
2年の時はレシピという課題があって沖縄のも作ったりとか、それからしばらくはアニメーションにして提出していってましたね。ICAF(インター・カレッジ・アニメーション・フェスティバル)にもスタッフで参加して、「こんなに日本全国で学生がアニメーションを作っているんだ!」と、その熱量に感心しました。
特に多摩美のグラフィックデザイン学科(通称:グラフ)は久野遥子さん、冠木佐和子さん、姫田真武さんなど、本当にクオリティーが高くて、その頃にはグラフにも憧れを持つようになりました。